よい子の目と耳
 
 

1894・8・2 父萬母三美の長男として仙台片平町の裁判所官舎に生まれる

1901・4 片平小学校尋常科入学

「『詩をつくるより、田をつくれ』私は人生の早い出鼻を、この言葉に挫かれてそれからの一生、たえず、こいつにつけまわされることになったが、その最初の深刻な印象をきざみつけられたのは、かくも早い、尋常小学校の初年級時代に於いてであった」(「回想」より)

1907 仙台一中に入学

1914 第二高等学校に入学「花から花へ蜜を喫う、蜂のいそしみ…」の寮歌を高唱し、冬は青葉城址の五色沼でスケートを楽しむごく普通の高等学校生であった

1915 東京帝国大学法学部入学

1917 チフスを患い、病気がちで一年休学、本郷の電車通りのビラでロシア革命のことを知る

1919 大学卒業、国分慶子と結婚

1920・10・19 長男善樹生まれる

1922 同志社大学から長谷部文雄林要氏らとともに講師として招かれ以後五十年余年京都に住むこととなる

1923・2・2 次男光生まれる

1924 同志社大学教授

  3・13 長女愛子生まれる

1926 下鴨上川原町(現中川原町)に家を新築、「よき盆栽つくり」編集発行

1927 上賀茂民芸協団設立

1928・5・2 三男生也生まれる

  6・20 日刊家庭新聞「ばらの花しんぶん」発刊

1929・4・23 同志社大学に長文の抗議文を提出した上辞職(同志社騒動)

      弁護士開業

  8・25 四男協生まれる

  10  京都家庭消費組合(現同志社生協組合)設立

1932・4 京都消費者組合(現京都生活協同組合)設立

1934   この年から八ミリ映画製作をはじめ、「疎水」「飛んでる処女」「季節の旗」「自然の工場」などを完成

1936・7・4 隔週タブロイド新聞「土曜日」創刊

   7・20 五男啓生まれる

1937・6・26 三男生也死亡

  11・5 土曜日」終刊

1938・6・24 土曜日」や「世界文化」の編集に携わり、反戦平和を訴え、治安維持法違反として林要氏らとともに検挙される

1940・7  山科刑務所から釈放

1942・2・16 六男南雄生まれる

   7・10 妻慶子死亡

1943・2・14 六男南雄死亡

   8  西垣清子と結婚

1944・1・20 父萬と共著書で「ぼくらの公民教室」(大雅堂)出版

「私たち父子は二代つづいた法律家です。父親の方の著者は永いあひだ判事をつとめ、あとで弁護士をやりました。息子の方の著者は少しのあひだ大学で法律学の講義をして、あとでやはり弁護士になりました。息子は、少年時代、よく父親から、法律や道徳や宗教の話をきかされましたが、あんまりよくわからず、いい加減にきいていました。息子がだんだん大きくなると、こんどは父親と対等で、夕飯の時などくつろいで、法律や、道徳や宗教のことの話をするやうになりました。そして、こんどは、息子の息子、父親にとっては孫が、その話をきいている順番になりました。」(「ぼくらの公民教室」あとがきより)

この年、五男啓のために、手書きの絵本「よい子の目と耳」をつくる

このころ、全勝映画新興キネマ等の企画部長をつとめ、シナリオ「土とたたかふ人」(荒野の叫び)「越路の春」など執筆

1945・11 米進駐軍より戦時中の事情を聞かれる。またクリスチャン・サイエンス・モニター紙のインタビューを受ける 高山義三氏らとともに「京都自由人権協会」設立

1946・2・26 父萬死亡(84歳)

   4 夕刊京都新聞社設立、編集局長

「『はじめに葉が、やがて穂が、そしてそれからゆたかな稔りが…』

…それは、焼けなかったたった一つの都市なればこそ、京都は全国の諸都市にさきがけて、いちはやく、自分たち自身を徹底的に、民主的平和的な市に、その市民を革命的民主主義者にきたえあげて行かねばならぬ義務がある。…われわれの自由は、風の吹く、陽のあたる、広場の中を闊歩する自由であり…現代では、新聞は人民の人民自身の生活の文学的表現である。夕刊京都は諸君の生活の鏡でなければならぬ。自由な人なつっこい、また正直な新聞が諸君の家庭の夕べを振はしつつ、歩いて行く方向はどこか、期待をかけていただきたい。(1964・5・12 夕刊京都創刊号論説「なぜこの新聞は生まれたか」より)

   4 山本修三、坂東蓑助氏らと「京都シアタアギルド」設立

1947・4・20 (投票日)第一回参議院議員に立候補

「およそ民主主義とは、あらゆる意味における身分的特権を、そのひとかけらも認めないことであります。府県市町村会、衆議院を人民のものとするとと同時に、参議院の中にもはたらく人民の勢力を送り込み、日本の民主革命を、一日も早く、完成しなければなりません。…私は選挙を以て、人民の苦しみや悲しみと切りはなされたものとは思いません。苦しい生活とたたかう一切の人民の日常的経済的ならびに文化的生活闘争とつらなり、それと一体をなす一大政治闘争こそが、こんどの選挙であります…」(政見放送原稿より)

1948・7・5 人民の法律」(大雅堂)出版

「こういう法律ー私たちが、まったく知らないのではない、いや、むしろ私たちも、それの出来るについては承知して手つだった、ということになっている法律ーについてこそ、私たちは責任をもっている。

法律学は、そういう法律についてこそ、成り立たねばならない。法律学は、そう言う法律を、ほんとうに人民のものにするための武器として、はじめて学問であるねうちをあらわす、というものだ。(「人民の法律」まえがきより)

1949・8 松川事件弁護団に参加

1950・2・20 母三美死亡(79歳)

   2・20 権力と暴力ー法廷斗争ノオト」(三一書房)出版

「ぼくがことし、1949年中にした弁論のうち四つの草稿を、だいたい法廷でしゃべった通りのかたちにして、ここに1冊の本にした。じつは、あとからあとから、こういうような似よりの事件が起こっていて、ぼくはフウフウ云わされている。ことしは、そういう点では、何という年だろう

『ことし』と、ぼくはわざと漠然というが、そのことしが、歴史の段階のどんな一歩を深めた年かは、しょくん自身に考えていただきたい。ぼくが、この本の中でしゃべっていることの全体をもって!(「権力と暴力」はしがきより)

1953・12・1 法律における抵抗」(三到社)出版

田中耕太郎兄にささぐーぼくは、この本に書いたようなことを、君に宛てた長い手紙に書きたいと、久しいまえから考え考えして来た。ここに書いたことに君が『たくさん反対だ。けれど少しはもっともだ』というようなことだと、どんなにうれしいだろう」(「法律における抵抗」献辞)

   1・15 タブロイド新聞「世間」編集発行

1958 スライコードの制作はじめる。主な作品「日本の故郷」「光悦寺界隈」「雲と水」「死んだ港」など

1960・12・17 都岡崎京都会館で「すらいこおど発表会」を開く。

「わたくしのほんとうの余戯で、発表会と申すのも、おぞましいきわみですが、三年ばかりのうちに、作品がだいぶたまりましたので、近しい方々のおすすめもあり…」(発表会口上より)

1963・3 「遠ざかる眺め」

   8 「移動風景」印刷

   8・3 京都高山寺で古稀の会「のせ・ふえすていばる」

1964・3・27 京都洛北生協(現京都生活協同組合)発起人会

「組合と私たちの間には、ごまかしはどんな意味でもはいって来ないし、莫大な金のかかる誇大広告宣伝というようなものは一切不要です。大きなまとまった需要は、現在の社会では、どんな意味でも仕入れについて必ず有利な立場に立つということは、子供でも疑わぬ常識でありましょう。問題は、ただそういうこの実際的なスタートであります。私どもが皆さんにこの訴えをしようとしているのはそのことなのです」(京都洛北生活協同組合設立発起人会・設立趣意書より)

1966・3・10 仙台青根温泉へ旅行

   4・26 ソビエト旅行

1967・8 「見もの三昧」印刷

1968・8 下鴨の次男宅で、八ミリとスライコードの全作品を観る会「映像大研究会」を開く

1969・10 文芸・わいせつ・裁判」(有光書房)出版

1973・1・3 正月の親族の集まりで書き初めをし、「蝶舞」と書く

   2 脳血栓で倒れる。

1979・6・17 死去(八四歳)

 

能勢克男の生涯

 
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